「適当」って言葉、どうも世間ではマイナスに転がされがちだ。
雑、とか、テキトー男、とか。
でも俺の中の“適当”はちょっと違う。そもそも字面がいいじゃねぇか。適=合う、当=当てる。
なんか職人が、その日その瞬間のコンディションに合わせて微調整してる感じがあるだろ?
国語のことは知らんけど、どう考えても「なんとなくやっとるわ」より品がある。
バンドやってた頃、上の人間に音作りを聞くと、決まって返ってくるのが
「いやー適当だよ」だった。
当時の俺は心の中で“ふざけんなよ、教えろよ”と思ってた。
アンプのつまみをどう回せば、あの音が出るのか。それが知りたいんだよ。
でも返ってくるのは、曖昧な笑いと「適当」。
正直イラついてた。
で、月日は勝手に流れ、自分が教える側に回る瞬間がくる。
するとどうだ。
「あ、その音どうやって作るんですか?」と聞かれる。
俺の口から自然に出てくる答えが——
「いやー適当にやってるだけだよ」
これだった。
言いながら内心でびっくりした。
ああ、俺もそっち側に来ちゃったんだな、と。
でもその瞬間にわかったんだ。
“適当”ってのは手抜きじゃない。
むしろ、その日の気温とか場所とか身体のノリとか、細かい条件を全部飲み込んで微調整している状態なんだよ。
つまり“説明できるレベルの理解”をはるかに超えて、身体で処理してる領域ってこと。
固定レシピなんて存在しない。
だから「これです!」って言えない。
そういう世界なんだ。
仕事でPhotoshopを使うことも多々ある。そこでも、似たようなことが起こる。
ツールの使い方を聞かれると、「あそこのアレをガッと押して、バーンてやるだけ」みたいな説明になってしまう。
実物が目の前にあれば言えるんだけど、虚空で説明すると急に迷子になる。
別に無知なんじゃない。(たぶん)
赤:何パー、青:何パー?知らねーよ。
いじってる素材が違えば、最適解なんて毎回ズレるんだから。
“身体で覚えた操作”は、言葉にした途端に壊れる。
Photoshopだって、結局はそういう世界だ。
で、今はこう思う。
もし誰かに「適当だよ」と返してしまっても、
いつかそいつが「あぁ、そういうことか」と気づく瞬間が来るかもしれない。
“適当”という言葉の奥にある、経験と判断と余白を、
自分の身体で理解できるようになったその時に。
腹八分目がいい、みたいな話だ。
やりすぎると味が壊れる。
ゆるいくらいがちょうどいい。
適当を許せない人もいるけど、それはそれで別の世界の話だろう。
俺は今日も適当にやる。
もちろん、適切にね。
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